たからしげるブログ

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つれづれ思うことどもを不定期で発信しています。

 母は2015年9月、95歳でこの世を去りました。


 父の逝去は、それより四半世紀以上昔の1988年10月で、享年74歳でした。


 寡婦となった母は、それよりずっと以前から、父と別居していました。


 ぼくや、一つ年の離れた兄が小学生だったころ、父は別の女性と恋に落ちて、中野にあった東京都住宅供給公社(中野住宅)の自宅をとび出していました。


 同じ都内にあったお相手の家に転がり込んで、夫婦のように同棲していたのです。


 その辺りのお話は、2005年にスパイスから刊行した『ラッキーパールズ』や、2022年にアマゾンのダイレクト・パブリッシングからオンデマンド形式で出した『団地の笛吹き』に、私小説タッチで書きました。


 母にとって中野住宅は、94歳になって足腰が立たなくなり、独り暮らしができなくなったために介護施設のお世話になるまでの、長きに渡る終の棲家でした。


 ぼくにとっても、家庭を持って独立するまでの30年近くを過ごした中野住宅には、子どものころから30代前半までの懐かしい思い出がいくつも詰まっています。


 でも、いまのぼくにとっての都は、千葉県市原市の、最寄り駅から徒歩20分ほどの丘の上にあるマンションの一室です。


 居間も仕事部屋も寝室も客間もバスもトイレも台所も狭いですが、わが城です。


 長く勤めた都内の新聞社を定年退職してからは、作家、ライターとしての仕事や同好の士で組むバンド活動のためを除いて、都内に足を向けることは殆どなくなりました。


 かつて居城した中野住宅はいまや、再開発の波に洗われて影も形もありません。


 少年時代に夢中になった草野球も、老いた母の介護も、いまは昔の話です。


 この都の城主として、今後どれほど務められるかは、風に吹かれる蒲公英の種ですね。

わが城から都一帯を眺め下ろす。

 

 

 

 先日、わが家があるマンションの居住者確認調査のようなものがありました。


 何か事が起きたときの、自分以外の親族関係者への緊急連絡先など、非常に個人的な情報を提出させられたわけですが、いざというときのマル秘扱いということだったので、まあいいかと書いて提出しました。


 その中に、いつからこのマンションに住んでいますか、という項目がありました。


 調べてみたら、平成6(1994)年3月からだとわかりました。


 今年で何と、まる30年も住み続けている計算になります。


 生まれたのは大阪の枚方市でしたが、幼児期に編集者をしていた父の仕事の関係で東京に引っ越してきて、中野区の中野駅前にあった住宅供給公社に住み始めたのは、小学校に上がる少し前のころでした。


 結婚して東京を離れたのは34歳のころでしたから、指折り数えると、中野住宅にはほぼ30年住んでいたことになります。


 子ども時代を含めた30年と、大人になっていまのマンションに住み始めてからの30年は、同じ長さでも、過ぎ去る時間のスピード感覚がまるでちがいますね。


 子どものころの一日は、現在の一日に比べると、何倍も長かったような気がします。


 いまや千葉県市原市は、東京都中野区に続くわが二つ目の都になりました。


 市原市内にはその昔、奈良・平安時代に上総国府が置かれていましたが、その正確な場所はいまも幻に包まれています。


 通信部勤務だったころに、この話題を取り上げて地方版に記事を連載しました。


 その後、本社に戻ってからは作家兼業になって「上総国府のなぞに新聞記者が迫る」といった形の本を書かせていただきました。


 温故知新ではありませんが、1300年前の昔の都を探りつつ、いまの住み慣れてきた(わが)都を確認したという次第です。

わが家の玄関から北北東の方向には、海岸寄りに袖ヶ浦・君津の工業地帯が並んでいます。

 

 

 

 

 

 わが家は、千葉県市原市の小高い丘の上に建つマンションの三階にあります。


 かつて新聞記者をしていたとき、同県木更津市の通信部という職場に配属になって、三年半ほど勤めました。


 通信部とは、地方にある支局にニュースを集めるための、支局の下部組織として、その地方の各地に設置された「最前線のニュース基地」とでもいえばいいでしょうか。


 通信部員はたったひとりで、一日二十四時間、車一台とカメラ、筆記用具を武器に、自分の通信部が管轄するあちらこちらを走りまわり、その日のニュースをかき集めます。


 といっても、たいていは「田舎」と呼べるような地域にある職場(兼自宅)ですから、限りある新聞の紙面をにぎわすような大きなニュースとなるような事件や事故、催事などが、毎日発生するわけではありません。


 会社組織の一員でありながら、常に面倒な?上司の顔を見て過ごさなくてもいい「一国一城の主」として、いたってのんびりと、優雅な日々が送れる環境だったわけです。


 わが通信部の管轄地域は市原、木更津、袖ケ浦、君津、富津の全五市でした。


 当初は木更津市内にあった、集合住宅四階の通信部で、カミさんと、小学校就学前の娘の家族三人で過ごしていましたが、三年目になって、木更津市より千葉市よりにある市原市内に大きなマンションが建てられ、販売を開始したことを知りました。


 3LDKの一室を、頭金五十万円から入居できるといわれたのと、いつか自分の家を持ちたいと思っていた願望が刺激されました。


 そこは通信部の同じ管轄地域でしたから、後先も考えずに速攻で買ってしまいました。


 東京の本社勤務に異動となったのは、新居に住み始めてまもなくでした(泣)。


 その日から、朝は早起きして大手町までドア・ツー・ドアで片道約二時間という、苦難の長距離通勤が始まったのでした。

わが家の玄関のドアをあけると、とびこんでくる景色です。

 

通信部で働く父とその息子を主人公にした連作短編集が、1999年12月刊行のデビュー作になりました。第2巻『そっくり人間』ともども、とっくの昔に絶版になっていますけど。

 

昨年刊行の最新刊です。読んで楽しみながら中・高受験に必出の四字熟語が自然に身につくと、おかげさまで好評です。現在、ちょっと趣を変えた続編を執筆中です。

 

 

 先日、東京・新宿へいってきました。


 年金と作家業だけでは食えない身なので、某新聞社のライターとして、著名作家さんへのインタビューに向かったのです。


 今回は、河出書房新社から『生きる演技』という新刊を出された、芥川賞作家の町屋良平さんにお会いするのです。


 取材場所は歌舞伎町にある喫茶店でした。


 もちろん、初めて足を運ぶ場所です。


 予め地図や電話番号など、アクセスの方法を手帳にびっしり書き込んで出かけました。


 電車は快適に走って、正味約1時間半をかけて新宿駅に着きました。


 東京は、小学校に上がる少し前から中野区の駅前団地で暮らしていましたから、新宿駅の佇まいは決して珍しくありません。


 ところが、ホームの階段を降りてから、歌舞伎町方面にどういけばいいか、よくわからなくなりました。


 改札口を出てから地下街を歩きまわって、なかなか地上に出られないのです。


 ようやく青空の下に出たときは、約束の時間がぐんぐん迫ってきていました。


 で、歌舞伎町にはどういけばいいのかが、もうさっぱりわかりません(泣)。


 こういうときは通行人に訊くのがいちばんなのですが、何となくわかるような気もするので、足がとことこ前に進んでしまいます。


 ようやく靖国通りを見つけて向こう側に渡り終えましたが、その先をどう歩いていけばいいのか、道に迷うのには100%自信があるので、茫然自失ですね。


 破れかぶれの歌舞伎町突入になりました。


 これ、決して「演技」ではありません。


 気がついたら前方のビルの前に、既知のカメラマンさんが立っているではないですか。


 1時ぴったりで、これこそわが守護霊さんのお導きと考えるよりほかに、理解しがたい偶然の目的地到達になりました。


 ありがとうございました、守護霊さん。

 

 

 

 3月14日、妻とともに千葉市内の公園墓地にある長女の墓へいってきました。


 1987年のこの日、娘は2歳と約11カ月の人生を閉じています。


 その前夜、風邪をこじらせて高熱を発し、お腹も壊していた娘を、自宅から車で20分ほどの距離にある総合病院の夜間診療室に連れていきました。


 宿直の若い医師は、熱を下げれば大丈夫といって、お尻から入れる解熱剤を処方してくれました。


 このとき娘は、上からも下からも多量の水分を放出していて、脱水症状を呈していたのだと思います。


 熱を下げれば大丈夫、という医師の言葉に安心してしまったぼくたちは、なぜ娘の脱水過多の危険性をもっと強く訴えなかったのか、悔やんでも悔やみきれません。


 夜中は、解熱剤の効果もなく高熱と喉の渇きと吐瀉に苦しみ、ときに奇声を発して泣き叫ぶ娘の看病で、一睡もできませんでした。


 翌朝いちばんで、いつもお世話になっている小児科へ駆け込みました。


 医師はその場で点滴をしようといってくれたのですが、器具が使用中だったのか、壊れていたのかよくわかりません。


 救急車を呼んだほうがいい、といいだしたので、それならいますぐ自分の車で運びますと答え、医師には、昨夜訪れた総合病院の小児科に電話連絡を取ってもらいました。


 赤信号を二回無視して、病院の救急口に車を止めたら、担当の医師がそこで待っていてくれて、すでに昏睡状態の娘を抱き取り、救急救命室に連れていきました。


 でも、間に合わなかったのです。


 墓には、妻が入信している(た?)カトリックに合わせて、十字架が刻まれています。


 いまは亡き小鳥の、ちゅんちゅく、と、ちゅんぎーも、一緒に眠っています。


 ずっと後になってから、由宇、という名前で本になりました。

 

 

 アマゾンで電子書籍を読むのに使うキンドル・クラウド・リーダーが壊れてしまったので、このほど買い換えました。


 およそ15年ぶりの2代目になりました。


 当初、電子書籍は現在ほど多くは刊行されていなかったので、選ぶ本もあまりありませんでした。


 それに、長いあいだ紙の本を読むのに慣れていたので、電子書籍を読むのが、どうにも疲れるような気がしたものです。


 選書や、ページをめくるなど、操作の仕方に慣れるのにも時間がかかりました。


 タッチの仕方がまずいと、いきなり2ページ分めくれてしまって、どこを読んでいたかわからなくなってしまうこともありました。


 友人知人にきいても、紙の本派が圧倒的に多かったです。


 電子書籍の未来は、あまり明るいとは思えませんでしたね。


 数年後、某出版社から偉人伝を書く仕事をもらったときでした。


 書店にもネット書店にも置いていない資料本を探さないといけませんでした。


 わが家から車で30分ほどの場所にある図書館では見つからなかったので、電車で2時間近くをかけて、東京の国立国会図書館にいくしかないなあ、と覚悟しました。


 ところが、ネットで検索していくうちに、その本が電子書籍になっていたのです。


 昔の文豪といわれる作家が書いた、著作権の切れた作品が、青空文庫というネーミングで無料の電子書籍になっているのを知ったときは、僥倖と感じましたね。


 これを機会に活用を進めると、色々と使い方がわかってきて、数年後にはなくてはならない仕事道具の一つになっていました。


 パソコンやスマホにアプリをダウンロードするより、ずっと読みやすいです。


 2代目リーダーは2万円近くしましたが、当然、必要経費として計上できますよね。

 

 

 

 

 

 三月三日は、女の子が健やかに育ちますようにと祝う、ひな祭りです。


 今年は日曜日で、大安になります。


 よいお天気になればいいですね。


 季節の変わり目に無病息災や豊作、家内安全、子孫繁栄などを願って行われてきた年中行事(五節句の一つ)で、別名・桃の節句とも呼ばれています。


 歴史をさかのぼると、本元の古代中国ではこの日が、陰陽道で厄日とされていて、日頃のけがれを払うために水辺で体を清めるなどの厄払いを行ったそうです。


 日本に伝わったのは平安時代で、土や紙で作った人形にけがれを移し、川に流して新しい季節を迎えるようになったとか。


 寒い冬が終わって、過ごしやすい春がやってくるのは、だれだってうれしいですよね。


 そのうれしさが、時代が進むにつれて、厄を払うというよりも喜びを分かち合うといった形で広まっていったのは、日本人の知恵のたまものではないかと思います。


 江戸時代には、この日が幕府公式の祝祭日になりましたが、お祝いしたのはまだまだ武家や裕福な町人らの家庭だけでした。


 庶民のあいだにも広まってきたのは明治以降のことで、やがて猫も杓子も犬も茶碗も。


 サトウハチロー(山野三郎)作詞、河村光陽作曲「うれしいひなまつり」という童謡は、一九三六(昭和十一)年に生まれました。


 この曲の2番に「およめにいらした ねえさまに よくにたかんじょの しろいかお」とあって、この「しろいかお」が怖い、という人がいるみたいです。


 でもこれは「くろいかお」「あかいかお」「あおいかお」って、どれをあてはめても怖いじゃないですかあ。


 ということで少し脱線しちまいましたが、この日はみんなでうれしいひな祭りをお祝いして、女の子にも男の子にも、たくさんの幸せがやってきますように。

 

 

 

 

 今年もまた著名な方々が次々と亡くなっていますが、著名だろうと無名だろうとこの世に生まれてきた限り、人はいつかあの世へ旅立っていかなければなりません。


 子どもの頃、死んだらどうなるんだろうと思って、恐怖を感じたことがあります。


 でも、死んですべてが終わりだったら、恐怖を感じる意識もなくなるわけですから、思い煩うものは何もないはずです。


 死後の世界があれば、どんな世界なのか興味津々に待っていればいいのです。


 前回のブログでは、クオリア(感覚質)を意識できるのは脳ではなくて魂ではないか、と書きました。


 その魂は意識と同じで、肉体が滅びると宇宙に向かって抜け出していく、という考え方が一般的ではないかと思います。


 では、生きている人の魂は普段、肉体のどこに収まっているのでしょうか。


 脳、心臓、体の隅々、アストラル体など、いろいろと説があるようですが、科学的には何も明らかになっていません。


 スイスの心理学者、C・G・ユングは、晩年に臨死体験をしたとき、意識が肉体を離れて宇宙に向かって上昇していった、と自伝に書き残しています。


 その後、ユングはさらに奇妙な体験を重ねてから生還するのですが、ここでひとつ、意識と魂とを別物と考えてみて下さい。


 脳内にあった意識が上昇していく先は、ぼくたちがあの世と呼んでいる宇宙の異次元の世界であって、そこに初めからずっとあるのが魂だと考えてみたらどうでしょうか。


 人の魂は、あの世から量子もつれの形をとって、人の脳に宿る意識を遠隔操作しているのではないか、と考えたいのです。


 あの世の魂と地上で生きる人の脳とは、量子信号を交換することで意識操作を行い、肉体や思考を動かしているのです。


 あくまでも素人の戯言ではありますが。

 

※本文の話は自伝(2)にあります。

 

 クオリアという言葉があります。


 本来は脳科学で使う用語で、ぼくたち個人が意識的に主観的に、ものを感じたり経験したりする「質」のことを指すそうです。


 たとえば、窓の外から聴こえてくるのはピアノの音だとか、彼女がくちびるに塗っているリップの色はピンクだとか、海辺に吹く風は潮の香りがするとか、このお菓子はバターの味が濃いとか、紙で切った傷が痛いとか、すべては五感にまつわるクオリアです。


 つまり、五感で対峙している風景や音や匂いや味や肌触りなどにかかわるあらゆる事象を、これは何、それは何、あれは何、といったふうに一つひとつ認識できるのは、クオリアの成せる業なのですね。


 ところがこのクオリア、科学的な正体はよくわかっていないようなのです。


 人が五感で感じたものは、脳内で電気的信号に変えられて意識を形成するわけですが、クオリアはいったいそうした電気的信号の流れの中のどこで、前述したような「ピアノの音」「リップのピンク」「海辺に吹く潮の匂い」「お菓子のバター味」「切り傷の痛さ」などの「質」を感じ取るのでしょうか?


 AI技術が発展していくと、ロボットはますます精巧な作りになって、やがて人間と変わらない感情も表現できるかもしれません。


 しかし、いくら人間そっくりのロボットができても、そこにクオリアがなければ、ロボットは「哲学的ゾンビ」と呼ばれて、感情を意識として自らのものにはできません。


 じつをいうと、クオリアは肉体ではなく魂と連結しているのではないでしょうか。


 もちろん、ぼくはその世界の専門家ではありませんから、科学的な論証はできません。


 作家としての空想で話しているだけです。


 そこで勝手な推論ですが、人の意識は脳ではなくて魂に宿っているのではないか?


 その魂は肉体ではなく、異次元に存在するという考えも、次のブログで紹介しますね。

 

 

 

 小説というものは、書いただけではあまり意味がないように思われます。


 書き上げた作品をだれかに読んでもらわなければ、おもしろくありません。


 もちろん、読んでくれた人だれもが、その作品を愉しんでくれるか、あるいは褒めてくれるかどうかは別問題ですが。


 ラブレターなら、相手の賛同を得ることができなければ、お役御免でしょう。


 小説の場合も、多くの人に読んでもらったのに、だれも気に入ってくれなかったというのはあり得るでしょうね。


 どちらが苦痛か悲劇か悪夢かというと、まあ、いい勝負かもしれません。


 では、せっかく書いた小説を、ひとりでも多くの人に読んでもらうためには、どんな方法があるのでしょうか。


 一番理想的なのは、出版社が公募している文学賞や新人賞のようなものに応募して、栄冠を勝ち取ることです。


 でも、これは公募関係者や選考委員の共感を得られなければ、どんなによく書けていても落とされるというワナがあります。


 自分が書いた作品を、普段から自分好みの本を出している出版社に持ち込んで、編集者に読んでもらうというのはどうでしょう。


 余程の興味と関心がない限り、編集者は現在、自分が担当している仕事に追われて、取り合ってくれる時間がないでしょう。


 自費出版は、相当なお金がかかります。


 オンデマンド出版は、低予算で本の形にはなりますが、書き手が広く知られていなければ、まず読んでもらえません。


 ウェブの小説投稿サービスの会員として、自作を掲載するというのもありでしょう。


 ブログを発進して公表するのも、読んでもらえるかどうかは別にして、ありますね。


 この世には玉石混交、読み手が殆どいない小説がわんさとあることが分かりました。


 それでも書き続けている人たちに幸あれ。