たからしげるブログ -2ページ目

たからしげるブログ

つれづれ思うことどもを不定期で発信しています。

 クオリアという言葉があります。


 本来は脳科学で使う用語で、ぼくたち個人が意識的に主観的に、ものを感じたり経験したりする「質」のことを指すそうです。


 たとえば、窓の外から聴こえてくるのはピアノの音だとか、彼女がくちびるに塗っているリップの色はピンクだとか、海辺に吹く風は潮の香りがするとか、このお菓子はバターの味が濃いとか、紙で切った傷が痛いとか、すべては五感にまつわるクオリアです。


 つまり、五感で対峙している風景や音や匂いや味や肌触りなどにかかわるあらゆる事象を、これは何、それは何、あれは何、といったふうに一つひとつ認識できるのは、クオリアの成せる業なのですね。


 ところがこのクオリア、科学的な正体はよくわかっていないようなのです。


 人が五感で感じたものは、脳内で電気的信号に変えられて意識を形成するわけですが、クオリアはいったいそうした電気的信号の流れの中のどこで、前述したような「ピアノの音」「リップのピンク」「海辺に吹く潮の匂い」「お菓子のバター味」「切り傷の痛さ」などの「質」を感じ取るのでしょうか?


 AI技術が発展していくと、ロボットはますます精巧な作りになって、やがて人間と変わらない感情も表現できるかもしれません。


 しかし、いくら人間そっくりのロボットができても、そこにクオリアがなければ、ロボットは「哲学的ゾンビ」と呼ばれて、感情を意識として自らのものにはできません。


 じつをいうと、クオリアは肉体ではなく魂と連結しているのではないでしょうか。


 もちろん、ぼくはその世界の専門家ではありませんから、科学的な論証はできません。


 作家としての空想で話しているだけです。


 そこで勝手な推論ですが、人の意識は脳ではなくて魂に宿っているのではないか?


 その魂は肉体ではなく、異次元に存在するという考えも、次のブログで紹介しますね。

 

 

 

 小説というものは、書いただけではあまり意味がないように思われます。


 書き上げた作品をだれかに読んでもらわなければ、おもしろくありません。


 もちろん、読んでくれた人だれもが、その作品を愉しんでくれるか、あるいは褒めてくれるかどうかは別問題ですが。


 ラブレターなら、相手の賛同を得ることができなければ、お役御免でしょう。


 小説の場合も、多くの人に読んでもらったのに、だれも気に入ってくれなかったというのはあり得るでしょうね。


 どちらが苦痛か悲劇か悪夢かというと、まあ、いい勝負かもしれません。


 では、せっかく書いた小説を、ひとりでも多くの人に読んでもらうためには、どんな方法があるのでしょうか。


 一番理想的なのは、出版社が公募している文学賞や新人賞のようなものに応募して、栄冠を勝ち取ることです。


 でも、これは公募関係者や選考委員の共感を得られなければ、どんなによく書けていても落とされるというワナがあります。


 自分が書いた作品を、普段から自分好みの本を出している出版社に持ち込んで、編集者に読んでもらうというのはどうでしょう。


 余程の興味と関心がない限り、編集者は現在、自分が担当している仕事に追われて、取り合ってくれる時間がないでしょう。


 自費出版は、相当なお金がかかります。


 オンデマンド出版は、低予算で本の形にはなりますが、書き手が広く知られていなければ、まず読んでもらえません。


 ウェブの小説投稿サービスの会員として、自作を掲載するというのもありでしょう。


 ブログを発進して公表するのも、読んでもらえるかどうかは別にして、ありますね。


 この世には玉石混交、読み手が殆どいない小説がわんさとあることが分かりました。


 それでも書き続けている人たちに幸あれ。

 

 

 昨年の大晦日に、辰年を迎えての抱負として「昇華(ショウカ)」をブログアップしましたが、それから早くも10日がたちました。


 今年、とにかく実現させたいのは、昨年9月にPHP研究所から刊行した『ラスト1行の四字熟語』の続編です。


 これはもちろん、正編が売れて重版の声がかからなければ、実現は不可能でしょう。


 作家や編集者にとって、重版という言葉ほど胸躍る気持ちになるものはありません。


 昨今、日本人の2人にひとりが本を読まない時代になった、などと言われているようですが、それでも読書が好きな人はまだたくさんいると信じます。


 そう言えば、昨年暮れには、2002年に小峰書店から刊行した『盗まれたあした』が2年ぶりに9刷重版になりました。


 あと一つ、今年希望が持てるのは、2021年にあかね書房から刊行した『伝記を読もう 北里柴三郎』ですね。


 今年の7月3日から、2004年以来20年ぶりに、デザインを新たにした新紙幣が発行されることが決まっています。


 一万円札は渋沢栄一、五千円札は津田梅子、そして千円札は北里柴三郎の、各肖像画が刷り込まれています。


 あかね書房の「伝記を読もう」シリーズでは、新紙幣の肖像になった『渋沢栄一』を芝田勝茂さんが、『津田梅子』を山口理さんがそれぞれ書き下ろしていますが、どちらも児童書界の重鎮作家さんで、その仲間入りができたのは大変ラッキーで光栄でした。


 年頭から大地震や航空機事故など悲惨で慌ただしい幕開けとなった今年ですが、これからはどんな年になっていくのでしょうか。


 たったいま、PHP研究所の担当編集者さんからメール連絡で『ラスト1行の~』2刷重版が決まったとのお知らせを受けました。


 何事も心から四六時中願えばきっと叶う、を今年の標語にしようかな。

 

 

 

 

 

 

 

 私の新年の抱負はズバリ!

「昇華」

固体が液体を経ることなく気体になることは、段階を踏まずに一挙に飛躍することで、令和六年にあっては十二支でただひとつの架空の動物・龍にふさわしい生き方ではないでショウカ。昨年、PHP研究所から刊行した一冊『ラスト1行の四字熟語』が、おかげさまで売れ行き好調のまま新しい年を迎えることができたのは、ギリシャ神話で幸運の神とされるカイロスのなせるわざではないでショウカ。カイロスはだれからも後ろ髪を引かれないために、前髪をすべて前に垂らして後ろ髪はないとされますが、このぼくもいまや後ろ髪がなくなってきて(前髪もか)カイロスに引けを取らない頭の形になっているのは、まさに辰年を昇華の年にしようと目論んでいる兆しと言えるのではないでショウカ。いずれにしても、たからしげるの新年の抱負には、現在執筆中の『ラスト1行の四字熟語・続編』を脱稿して、2冊そろえて爆売れをめざしてやろうという魂胆がまる見えではないでショウカ。

 

 

 昔から不思議が好きです。


 不思議を『広辞苑(第四版)』で引くと、「(不可思議の略)①思いはかられないこと。いぶかしいこと。あやしいこと。奇怪。②あやしく思う。不審の念を持つ」(一部略)とあります。


 ①の意味での不思議に興味を引かれます。


 子どものころ不思議に思ったことはいくつもありましたが、中でも、空の向こうには何があるのだろう? と思うと、不思議な気持ちになって眠れませんでした。


 大きくなって、空の向こうには宇宙が広がっているとわかりましたが、では、その宇宙の向こうには何があるのでしょうか?


 文明を開化させた人類は大航海時代以降、海の向こうには何があるかを次々と発見していって、現在では、地球という惑星のほとんどの地域に人跡を残しています。


 しかし、その目を宇宙に向けて見ると、人類が現実に人跡を残した場所と言えば、月しかありません。


 それも、ほんの限られた場所だけです。


 光は1秒間に(真空中を)約30万キロメートル進むとされています。


 新幹線が普通に走っている速さを秒速70メートルとしたら、光はその約4286倍という、めちゃくちゃな速さになります。


 それでも、月の光が地上に届くまでには1・3秒かかるのだとか。


 太陽の光は、8分19秒かかるそうです。


 太陽系が属する銀河系の、一番長い横幅に光を走らせると、端から端まで約10万年かかると言われています。


 いくら長生きをしてもせいぜい100年ちょっとの人間は、たとえ光速でとぶ宇宙船を発明できたとしても、乗組員ひとりでは銀河系の外に飛び出していくことはできません。


 宇宙は人間のためにあるとは思えません。


 では、人間は何のためにこの宇宙にいるのでしょうか?

 

 

 怪しい夢でした。


 ぼくを指導しているのは、だいぶ年下の、学生とも思われる若い男性です。


 これを見なさい、と言って持ってきた紙を開くと、採点が済んだテスト用紙でした。


 点数は書いていませんが、ずいぶん悲惨な成績のようです。


 中央にあって、赤字でバツになっているのは、「証明せよ」といった類の問題です。


 数学の証明問題とは違うみたいです。


 何を証明したらよいのでしょうか。


 この世には、科学では証明できない事象がいくつもあります。


 死後の世界はあるともないとも言われていますが、絶対にないとは、だれも証明できていません。


 幽霊がいるとしたら、死後の生命、もしくは意識はあるということになりますが、幽霊そのものの存在は証明されていません。


 予知というのは、これから起きる出来事を予め感知することで、当たったとしてもすべて偶然と言われればそれまでですが、絶対にできないとはだれも証明できていません。


 この世界は仮想現実であることを、量子力学の観点から証明しようとしている科学者はいますが、完全な証明には至っていません。


 この薬はよく効くと言われて、ただの栄養剤を服用しただけで、重篤な病気が快癒してしまうようなプラシボー効果のからくりも、証明できていないようです。


 宇宙に果てがあるのかないのか、あるとしたらそれはどこにあるのか、ないとしたらどうなっているのか、理論を超えて実証されたことはまだありません。


 時間を限りなく遡っていくと、宇宙の始まりにたどり着くのでしょうか?


 それとも、限りなく遠い未来にたどり着くのでしょうか。


 それとも、無限に包まれるのでしょうか。


 証明する手立てはありません。

 

 

 先日、久しぶりに東京駅八重洲口界隈を訪れて、約40年ぶりに再会した旧友数人と楽しく充実した時間を過ごしました。


 街は生きていて日々生まれ変わっていて、この日の大都会も、各所に真新しい高層ビルが建ち並び、あちらこちらでクレーンが動きまわっている印象でした。


 帰りの電車内では、こんなことを考えていました。


 街が生まれ変わるのは、そこに暮らしている人たちが、絶えず変化を続けているからでしょう。


 いま生きている人たちも、いずれは年老いて故人となり、その人たちの子や孫の世代が街にあふれることになります。


 古いものが消えて、新しいものが生まれてくるのは、だれも逆らうことのできない自然の摂理ですね。


 タイムマシンのようなものに乗って、百年先の未来から現代にやってきた人がいるとしたら、どんな気持ちになるのでしょうか。


 不測の事故によって、奇しくもこの現代に降り立ってしまった若者を想像しました。


 現代に生きるぼくたちが「最新」と思っているものはどれも、取るに足らない古めかしいものと映るのでしょうか。


 建設作業が中途の状態にあるビルの工事現場を見て、どう思うでしょうか?


 百年後、そのビルは建っていた使命を終えて、すでに取り壊されて、その上にまた新しいビルが建っているかもしれません。


 いま生きて暮らしているほとんどの人たちの姿は、どこにもありません。


 そんな未来からやってきた若者は、自分が関わったことのない、若かりし日の祖父母やそのまた両親や、彼らの友人知人らと会ったら、どんな会話を交わすのでしょうか?


 若者同士、新しいつきあいを始めることができるかもしれません。


 年の差なんて、つけようがないのですから。

 

 

 人間、喜寿を越えてしまうと、ある意味達観した人生が送れるのかもしれないと考えていたのは軽率でした。


 とんでもありません。


 高齢に達することは、ひたすら肉体が衰えるだけで、純然たる精神への影響は皆無と言ってもいいでしょう。


 確かに時が過ぎれば過ぎるほど、この世に生を受けた肉体は摩耗が著しくなってきて、そこかしこに不具合が生じてきます。


 しかし、肉体に宿っている魂は、おしゃべり人形に埋め込まれた乾電池の電力が弱まっていくように、日々衰退していくわけではありません。


 よく、記憶力が減退するとか、頭の回転が弱まるとかいいますが、それは魂ではなくて肉体の老化が原因です。


 これを、脳細胞の老朽化、または退化と呼んでもいいかもしれません。


 ぼくはそうした分野の専門家ではありませんが、実感として捉えられるのです。


 長年スポーツなどで体を鍛えてきた人が、しばらく試合や練習と遠ざかり、筋肉の鍛錬をスルーしていると、あるきっかけでいきなり体を動かそうとしても、思い通りにはなかなかいかないものです。


 ここで言う「思い」がすなわち、精神であり、つまりは魂そのものなのです。


 運転手がいくら意固地になっても、ポンコツ車は、新車だったころに比べるとまるでスムースに走らないのと同じです。


 でも、その運転手の運転技術に問題があるわけではありません。


 ところで、人間は肉体と魂によって生きているという構造そのものは、科学的に証明されているのでしょうか。


 太古から、そうは言われてきていますが。


 たとえ肉体が衰えても、魂の輝きは普遍であることを噛みしめたくて、ぼくは児童書の執筆に拘っているのかもしれません。

 

 

 

 

 たとえば、仕事でどこかへ出かけようとする直前、どうでもいいセールスの家電がかかってきて、話をきいてからお断りするまでの応対に一、二分を費やしたとします。


 駅まで急ぎ足で歩いていきましたが、乗るべき電車を一本逃してしまいました。


 さっきの電話さえなかったら、きっと乗れた電車だったのに、と歯がゆい思いをしたことはありませんか?


 逃した電車に乗っていれば、その後のいつか降りかかってきただろう災いがあったことに、あなたはいつまでも気がつきません。


 あるいは、車で駐車場を出ようとしたら、目の前に知り合いの家族が現れて、久しぶりの会話に五分ほどをかけてしまいました。


 それじゃ、と手を振り合って車を出しますが、出発がだいぶ遅れました。


 知り合いの家族に出遭わなければ、途中のとんでもない場所で、とんでもない災厄に遭遇していただろう運命だったことなど、あなたはつゆほども知らないのです。


 その逆もありです。


 初対面の相手と、指定された場所で正午に待ち合わせをしているのですが、このときに限ってなぜか道に迷い続けて、渡りたい横断歩道の信号も赤ばかりです。


 それでも遅れちゃまずいと思い、場合によっては走りに走り汗みずくになりながら、どうにかぎりぎりで到着しました。


 ところが、相手はなかなか現れません。


 その場で二十分近くも待ちぼうけを食らって、相手の携帯に連絡すると、約束の時間が一時間もちがっていたのです。


 以上は、日々刻々あなたの身の安全や生活の細部に留意してくれている、目に見えない時の精霊のなせる業といっていいでしょう。


 守護霊と呼ぶ人もいるようです。


 何ごとにつけても、正常に流れている時間が不意に乱されたときは慌てないことです。


 時の流れに身を任せることは大切です。

 

 

 秋が深まると、北東寄りにある仕事部屋の気温が日ごとに下がってきました。


 今年は暖冬になると言われていますが、それでも冬は寒くないと冬らしくありません。


 暖房設備のないこの部屋では、窓にプラ段をかけて二重にして、厚着をして、ひざには毛布をかけてパソコンに向かったり、ネットの映画を観賞したりします。


 それでも堪えきれないくらい寒くなってきたら、パソコンごと部屋を脱出して、暖房の効いた居間に避難する予定です。


 BGMはスピーカーから直接ではなくて、イヤホーンに頼ることになるでしょう。


 家人が「親友」と呼んでいるテレビをみることは、ほとんどありません。


 先月、足かけ2年をかけて仕上げた短編集『ラスト1行の四字熟語』(PHP研究所)ですが、地元紙の「千葉日報」と、全国紙の「東京(中日)新聞」に取材していただき、他にもいくつかの媒体やSNSを通じて本の紹介をしてもらいました。


 おかげさまで、これまで出してきた本に比べると、出足は好調のような気がします。


 子どもたちが勉強としてではなく、娯楽として楽しむものの一つに読書があります。


 だれだって「おもしろそうな話」は、聞いてみたいし、読んでみたいと思うはず。


 2年前には同じ版元から『ナイトメアのフカシギクラブ』を出して、これも子どもたちには興味のありそうな「こわい話」「不可思議な話」の短編集を出しました。


 今回は、そうしたテイストを取り入れながら、さらに「奇妙な」「怪しい」「楽しい」短編作品の、いずれもラスト1行を四字熟語の導入で終わらせています。


 帯には「中学受験頻出」とありますが、決して勉強の本ではなくて、娯楽の本であることを強調しておきたいです。


 自然に多くの四字熟語の使い方が身に着くのは、嬉しい副産物かもしれませんね。